2010年5月25日火曜日
エミリの質問。
「どうかしたんですか?」
アルバイトで2週間前に入ってきたばかりのエミリが言った。
「男の人が、窓ガラスにはりついて」とイタチは言った。
うん、とエミリはひとつうなづいた。
「で、その、何か言ってたんだけど」とイタチは言いかけたものの、なんとなくあきらめてしまった。
「よくわからなかったな」そう言って、力なく笑った。
うん、とエミリはもうひとつうなづいた。
「オトナ語ですね、イタチさん」
イタチは驚いた。もう、釜ゆでになって、真っ赤になって、耳からは湯気がしゅうしゅう出て、その勢いで爪の先が床から3センチも浮いているような心地だった。
2010年5月24日月曜日
吸盤。
午後から雨があがって、イタチは珍しく1階で店の窓ガラスを拭いていた。
すると、ガラスの反対側に、何かがぐにゃっとはりついた。
中年くらいの男性の顔だった。それに5の指先が、両手分、かえるの吸盤みたいに。
よれた顔で、男は言った。
「わたしは、」窓ガラスに、まっ白に息がかかる。「現在のことについて……」
「え?」とイタチは耳を窓ガラスに近づけた。
「げんざいの、ことについて」と男は言った。「語りたいのです」
「うんうん」とイタチは大きくうなづいてみせた。
男はよれた唇をガラスにつけたまま「過去でも、未来でもなく」と言った。「現在にはりついて……」
「うんうんうん」と、イタチはもう一度、大きくうなづいてみせた。
「ずっと現在についてだけ……」
そう言うと男はぱっと窓ガラスから飛び退いて、雑踏に紛れて消えてしまった。
イタチが慌てて店の外へ出ると、空には淡い虹がかかっていた。
2010年5月20日木曜日
ぬかに月。
「昔ね、知り合いの女の子が、月に土地を持っていたんですよ」
「月に、土地ですか?」とイタチは訊いた。
「そう。なんだかいかにもって感じの写真があってさ、彼女の部屋に。で、その写真のどのあたりが自分の土地だっていうわけ」
「ほう、」
イタチは、何かの記憶のしっぽが、ふらりとひとふり姿を現したのに気づいたのだけれど、それっきり消えてしまった。
「そういう投資って、ちょっと感心したんだけどね」と男性は言った。
「そうですね、すてきですよ」
「うん」
男性は、ソイラテのトールを飲んでいた。
「でもコドモにモノの小言言ったりするとさ」と言って、男性はイタチを見た。「大人って、ほんとに何でも買ったりしてんだよね」そう言って笑った。
「ハハ」とイタチも笑った。「だって、オトナ買いって言いますものね」
「そうそう」と男性は言った。「残念ながら」
2010年5月19日水曜日
最後の質問。
検査は、結局のところ、老先生のところでしてきた検査と同じだった。若い先生は検査結果について一通り説明して、老先生の検査結果と同じであることを述べると、どこかへ行ってしまった。
診察室は、よく見ると、奥が通路になっていて、その意味ではふつうの病院と同じつくりになっていた。だが診察室そのものが真四角で広いので、そのことに気づきにくいのだ。ひらひらしたカーテンもついている。どこにでもあるような事務用の引き戸つきの戸棚も、これほど中ががらんとしているのは見慣れない。やっぱりドラマのセットみたいだ、とイタチは思った。
通路にはほんのたまに看護婦さんが通る。それもますます、ドラマの通行人みたいだ。先生がその通路のどちら側だかに消えてから、もうずいぶん時間も経つ。今度通路から誰が登場しても、別におどろかないぞ、とイタチは思った。イタチだって、キリンだって。
しかし出てきたのは、さっきの先生と第三の先生だった。
「へんにきこえるというのはどういうふうにきこえるんですか?」
第三の先生も、さっきの若い先生と同じことを質問しはじめた。しかし同じに答えるのはなかなか難しい。伝言ゲームのようになってきたぞ、とイタチは思った。
「わからないですね」
第三の先生がそう言ったので、イタチはそれで放り出されてしまった。
2010年5月18日火曜日
耳の検査
大きい病院の耳の検査室は、学生が人並みに住めるほど広かった。広い中にふたりも検査員がいるのだけれども、これはつまり一人は新人で研修中だったのだ。やれやれ、とイタチは思った。
予想通り、新人は乱暴だった。
ベテランの検査員が居るときはまだよいのだが、一人になって、片耳ずつ聴力を測るために耳栓をしようというとき、酒樽の栓をねじ込むように、直立したまま、耳穴もみないで、ぎゅうぎゅうスクリューさせてくる。あわててベテランの検査員がやってきて、
「お風呂の栓じゃないんだから、そんなにしたら痛いよ」とたしなめた。
それでも新人は、もう片方の耳も、そんなふうにして栓をした。イタチは、さっきまで栓をしていたさっきの耳が、ちょっとぼーっとしてくるのを感じた。
「あれー、耳栓がないですねえ。どこいっちゃったんだろう」
新人は今度は耳栓がないといって探し始めた。
2010年5月17日月曜日
耳の診察
がらんとして広い診察室は、ドラマのセットの中に、パソコンが一台のっている事務机をひとつだけ持ち込んだものの、いつのまにかそれが定着してしまって、そのパソコンだけがカタカタと働いているような空間だった。
大きな病院の先生は、多少予想はしていたのだけれども、とっても若い先生だった。
「症状はいつごろからですか?」
イタチは考え考え答えたのだけれども、質問の内容は近所の耳鼻科の老先生と同じだし、それについては老先生がたっぴつな文字で、欄を埋め尽くすほどびっしりと書き込んであるはずだ。
たとえば老先生はこんなことも、ついでに、という感じに一筆に書き込んでいた──
「ネコの鳴き声がへんにきこえる」
「というわけで、そこに書いてあるとおりなんですけど」
イタチは、なんだか自分が言っていることが、若い先生が今読んでいる紹介状に書いてることと、だんだん違うような気がしてきて、そう言った。
「では検査しましょう」
2010年5月15日土曜日
イタチと大きい病院
そういうわけで、イタチは「大きい病院」へ行くことになった。
紹介状に書かれた病院へ行くと、確かにそれは大きい病院だった。入り口にはわざわざ今日の予約は3057人と書いてある。付き添いがいないのは私ぐらいで、地域の病院のように老人ばかりでもない。世の中には難しい病気に悩まされている人がたくさんいるのだなあ、とイタチは思った。さぞ待たされることだろうと思いながらベンチに座っていたが、実にあっさりと自分の番になり、イタチは慌てて近くの診察室のドアを開け、中へ入った。
2010年5月14日金曜日
耳鼻科の老先生。
「左の耳がおかしいんです」と、イタチは言った。
「うん」と先生が言う。
「このね、グラフが下がっているでしょ、この下がり方が標準以下なんだね。聞こえが悪いんです」
「なるほど」
「でもどうしてか、僕にはわからないなあ」
「……」
「大きい病院へ行きましょう」
2010年5月13日木曜日
イタチの耳の変化について。
ある日イタチは、ふいに、中耳炎になった。耳鼻科の先生に診てもらうと、検査しましょうという。壁にぽつぽつと小さな穴の空いた、カフェのトイレよりも狭いオーディオルームに入って、検査員の方が
「聞こえたら、ボタンを押して下さい」と言う。
「ずっと押し続けなくてもいいんですよ。聞こえたところで1回押して下さい」
と言う。
30%の雨
見上げると、何層ものグレーが、いろんな形にたなびいて、空を覆っていた。ところどころ青みがかっていても、どこまでもグレーな空だ。
いずれにしても雨が降るかもしれないのだから、傘を持っていったほうがいい。しかし今は雨が降っていないのだから、傘はいらないだろうと考える。もちろん、どっちでもいい。
会社員の佐藤さんは、バンドの練習に来るときに、ベースのソフトケースの中に、長傘を入れていた。練習が終わって地下のスタジオから出てきたら、外には意外にもざあざあと雨が降っていて、私たちが唖然としていると、雨の予報が出ていたからと言って、ケースの中から傘を取りだしたのである。ワンタッチで、ぱっと傘が開く。私たちもちょっと入れてもらった。
雨が降るということは、確かに予測可能だったかもしれない。けれども、もともと今降っていない雨に傘はいらないと考えるのだから、それほどがっかりもしないのである。
登録:
投稿 (Atom)