2010年5月24日月曜日

吸盤。

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午後から雨があがって、イタチは珍しく1階で店の窓ガラスを拭いていた。
すると、ガラスの反対側に、何かがぐにゃっとはりついた。
中年くらいの男性の顔だった。それに5の指先が、両手分、かえるの吸盤みたいに。

よれた顔で、男は言った。
「わたしは、」窓ガラスに、まっ白に息がかかる。「現在のことについて……」

「え?」とイタチは耳を窓ガラスに近づけた。
「げんざいの、ことについて」と男は言った。「語りたいのです」

「うんうん」とイタチは大きくうなづいてみせた。

男はよれた唇をガラスにつけたまま「過去でも、未来でもなく」と言った。「現在にはりついて……」

「うんうんうん」と、イタチはもう一度、大きくうなづいてみせた。

「ずっと現在についてだけ……」

そう言うと男はぱっと窓ガラスから飛び退いて、雑踏に紛れて消えてしまった。

イタチが慌てて店の外へ出ると、空には淡い虹がかかっていた。

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