2008年9月30日火曜日

イタチのカフェ・アルバイト

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「べつにわたしは、しょうばいはできないのです」
と、イタチは言った。
「だからおそうじのろうどうとか、ガーデナーなんかがむいていると思います」
私は、ハローワークの職員になったような錯覚に陥りつつあった。

イタチはそこで、パッと顔を上げた。
「そうだ」
「どうしたんです?」
「いや……」
と、今度は急にがっかりして、顔を落とした。
「いや、いいんです」
「そうですか? 何か思いついたんじゃないですか? 向いてる仕事とか?」
別に私は職業安定担当員じゃないんだし。

「いや……」
イタチはちょっと照れていた。でもやっと言った、次のように。
「カップ一杯のコーヒーを売ることなら、できるかもしれないです」

そしてこう付け加えた。
「おしごとの合間に、つくえなんかも、ちょっとそうじしたりして」
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2008年9月29日月曜日

猫が顔を洗うと。

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猫の額を散歩することにした。ひげのでているところから、耳のつけ根を二つ回って、ひと巡りだ。

こいつの茂みは深い茶色だ。縞を渡って、耳のつけ根へ向かっていると、ぴょんと脇から蚤がひとつ飛び出てきて、ふと目があった。大丈夫、今日は捕まえないよ、と言ったが、蚤はそのまま兎みたいに背中の方へ跳ねていって見えなくなった。

私はまた猫の額を回り始めた。

リョーシ猫

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2008年9月28日日曜日

真空の浜辺

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ロングビーチ

観光地へ行くと、私の癖で、もしここで生まれ育っていたら、と考えてしまう。気候のよい避暑地だから、中学生の私は、スポーツ系の部活に入っていたかもしれない。東京へ行くには2時間で、いやしかし、私が高校生の頃まではまだ新幹線がないのだから一時間に何本という列車を待たねばならなかったろう。ということは滅多に地元を離れることはなく、ペイリン氏のような生き方に共鳴したかもしれない。

いつもはおよそそんなふうに考えるのに、初めてその浜辺に着いたとき、珍しく私はそう思わなかった。そこに生まれ育ったかもしれない私と、私との間にはなんの接点も共通点もない。そのことだけが白日の下に曝されていた。そして風が次々とやってきては、記憶の麦わら帽子を飛ばしていった。

ロング・ビーチだ。

生まれて初めて降り立つロング・ビーチは、よく晴れていた。水平線の真上に飛行機が斜めに走っているのが見えた。風の音だけがしていた。半年とか、2、3年とか、ある期間ここに滞在して、ゆっくり考えられるといいなあと私は思った。

ロング・ビーチにはスターバックスがある。駅前の、星条旗が立っている駐車場のすぐ隣だ。いつかきっと、そこでロング・ビーチについて書く時が来るだろう。いやに確信的に私はそう思う。そうなるといいなあと私は思った。
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2008年9月27日土曜日

小ぶりな猫のあしあと

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少し前まで妹はオーストラリアに住んでいて、猫を飼っていた。より正確に言うと階下の家主が猫を飼っていて、その猫がいつも妹の部屋へ遊びに来ていたのだ。

だが、たまに遊びに来るというような関係ではなくて、猫はやはりそこに住んでいた。むしろごくたまに、妹が仕事に出かけているときなどに、こっそり里帰りするくらいのものだった。そのため、ごくたまにだが、猫はどうしているかと家主が訊きにくることもあった。

そういえば、今唐突に思いだしたのだが、その家主は犬も飼っていたのだった。それはとても血統のよいビーグル犬で、どうかすると鎖を離して自由にしてもらえるらしく、そういう時には階下で騒々しい音がしたかと思うと、一直線にのびる階段を一気に駆け上がってきて、サリサリ、ザリッ、ザリッ、という具合にノックするのである。

妹がドアを開けてやると、フローリングの床が滑るので体は斜めになり、まるで泳いでいるみたいにスローモーションになりながらも、ひたすら前へと進もうとする。部屋をだいたい3周ぐらい駆け回って、猫の食事台を見つけるとキャットフードをたいらげて、飛び跳ねたり、鳴いたりしながら、そのうちにしかと呼び戻されるので、ハッとして帰って行く。オーストラリアの家主は、犬も猫もたいへんかわいがっていた。

ある日、私が大学の図書館で暇をつぶしていて、本を借りようとカウンターまで行くと、カウンター越しにばったりと家主に出会った。何でこんなところにいるのかと言いそうになったが、思い直して差し障りのないことを一つ二つしゃべり、そして別れた。

妹は今でもたまにオーストラリアへ行くと、かつての家主を訪ねるのだそうだ。そして家主は今でも猫をかわいがってくれたことを感謝していると話すという。

猫の名はフィヤンマという。フィヤンマも元気だそうだ。
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2008年9月26日金曜日

モノレールに乗って。

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駅へ着くと、次の電車の行き先と発車時刻を表示する掲示板が、へんな数字を表示していた。よくある遅れかと思ったが、よくよく見ると、約1時間も先の時刻を表示している。しかも、ホームへ続くエスカレータが止まっていて、ロープが張られていて、そこへ駅員が二人、もんがまえに構えて立っていた。

なんと、電車が止まっているのだ。

並行して走っている電車があるので、そちらを使って行くだけのことだが、しかしなんだって電車が止まっているということに気づくのにあんなに時間がかかるのだろう?

帰りには電車はもう走っていたが、乗客はいつもより少なく、いつもは詰め合う座席さえ、がらんとしているほどだ。パソコンも気楽に使えるから、今こうして書いている。しかしこんな地下鉄直通のJRじゃなくて、モノレールに乗りたいな、と思った。

モノレールに乗って、どっか行くんだ。
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2008年9月25日木曜日

奇譚のしっぽ。

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「最近さ、その目玉がさ」と夫は私の目を指して言った。「話をしているときに、黒目が白目の中へ浮いてるよ。目を見開くとは言うけれど」
「つまり、西川きよしみたいに?」と私は訊いてみた。
「うん。気を付けたほうがいいよ」と夫は言った。
確かに、最近どうも目玉が乾くと思って目薬を点したりしてたのだった。

「でも、どう気を付けるのかな?」と私は訊いてみた。
「わかんないけど」
「言いたい気持ちが強すぎるのかも」と私は言ってみた。
「わかんないけどね、そうかもしれないよね」

そんなことを言われたのは初めてだった。これはリョーシ猫にそうだんしなきゃな、と私は思った。
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2008年9月24日水曜日

わたしだって猫である。

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カフェでパソコンを開いていると、さっとリョーシ猫が寄ってきて言うのだった。「というわけですよ。」というわけですよって……? とわたしは訊きたいのだが、そういう思いを額に浮かべている間にも、リョーシ猫は姿勢を変えて、口元にやや笑いを浮かべていないとも言い切れない表情で、「というわけですよ。」とたたみかけてくるではないか。

それまでキーボードを打っていた私の両手は、宙に浮いたまま所在なくポーズしている。

「というわけですから。」と、リョーシ猫が言った。もしかして、それで話を切り上げて立ち去ってくれるのだろうか? そう言うわたしの額には、今度はもうはっきり「?」と書いてあったと思う。ところが意外にもリョーシ猫は、その太い前足で、自分のせまい額をぬぐって言った。「いや、どうも。」

「は?」
と私は声に出して言った。
「いや、どうもわからんですよ。さっぱり。」
「はあ」
「リョーシは世界を変えると思いますか?」
「もちろん」
「よかった」

リョーシ猫は額を倍に広げて、心底うれしそうにしっぽをひと振りしてから、あっという間に去っていた。
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2008年9月23日火曜日

色えんぴつを磨く。

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都心部へ出てきたが、打合せと打合せのあいだにちょうど45分ぐらい空いてしまったので、 カフェで少々仕事を片付けることにした。

2階の窓際に座ると、通りの向こうは文房具屋で、中から人が出てきて店先の商品にぱたぱたとはたきをかけ始めるのが見えた。ふと見ると、となりの席にはかなり年の違う女性二人連れで、なんとなく深刻そうな話をしているようだ。

まあ、それはそれとしてパソコンを開くと、さっきの打合せのことがすっかり蘇って、しばらくは仕事がはかどった。ときどき窓の外を見ると、文房具屋の人は相変わらず画材ケースの積み方を直したり、スケッチブックを一つ一つきれいにしたりしていた。そのうちに色鉛筆の一本一本を磨き始めるんじゃないだろうか。

すると、隣の席で背中を向けている年配の方の女性が言った。
「私の使う言葉は本当で、話はうそです」
相手の若い方の女性も、とはいえ、実は私の席からは顔まではよく見えなかった。だからほんとうにいったいどれだけ若いのかはわからない。ただ、彼らの態度にはどこかしら、二人の年齢に段差があることを窺わせた。彼女は即座に言った。
「じゃあお話はうそもあるんですね?」
「はい」
「わかりました」
「でもね、ゆう子さん、言葉は本当だというのはわかりますか?」
老婆はなかなかしつこいのだった。
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2008年9月22日月曜日

Words Eater

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昔むかし、神宮前のかなり目立つ交差点の角にある雑居ビルの、その中のさらに角に、オールディーズなインテリアの飲食店があった。インテリアと音楽がなにやらアメリカンな、マリリンモンローのポスターが貼ってあるような店だ。その店のランチセットについてくるコーヒーは、もともと薄暗い照明もあって、炭火焙煎だからというよりも、ただただ黒くて苦いのだが、熱いことだけは取り柄だったのだ。お酢差しのような瓶にバーボンが入れてあって、マグへざっと注ぐと、勢いよく香りが立った。

そんなふうに、いつのまにか、カフェにいながらウィスキーのことを思いだしていた。

そして私は、なんだかおこがましい気がしてきた。それは言葉と言葉とをくっつけたり離したりしながら、結局はのみこんでやろうという話なんじゃないのか?

たとえば翻訳というのは苦しいばっかりで、ちっとも楽しくないじゃないかと思ったりもしたのだけれど、飲み込めているという実感があればそれはできる。翻訳という仕事が役に立つのならば、それはよりよき活用と言うべきだろう。

それでいったい、何を飲み込んだんだ?
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2008年9月21日日曜日

パペットマペットよ永遠に

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「朝から理屈を言うようだけどさ」
とリョーシ猫は言った。
「うしくんとかえるくんのどっちがつっっこみでどっちがボケかなんて、言えないだろ?」

私はここはだまって聞くことにした。

「うしくんがぼけで、かえるくんがつっこみで、かえるくんがぼけると、なんて考えてたら、できるわけないんだよ。」

「ああ、そこには腹話というフィクションがないですものね。」

「そうだよ。」
とリョーシ猫は満足げに言った。
「漫才にたとえて言うから、おかしいことになるんだ。」
そう言って、前足で2回、ひげをなぞる。
「それに、かえるがかみつくなんてヘンなんだよ。かえるはかみつかないよ。」
リョーシ猫は自分の今言ったことばを追いかけるように、ちょっと天井を見上げた。まるで蠅でも追うように。
「あんなふうにかみつくのは──猫なんだよ」
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2008年9月20日土曜日

コーヒーカップとしての科学

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「ですからね、科学のむずかしいお話も、もしコーヒーカップのようなものだったら、いいんですよ」
と柚香さんは言った。柚子の香りと書いて、ゆずかと読む。柚香さんはファッションの畑を歩いてきた人だ。職業柄、頭の先から爪先まで、一抹の不整合もない。

私は、文字通り、目から鱗が落ちた。「そうですよね、コーヒーカップならいいわけですよね」と力強く相づちを打った。

「それ、どういうこと?」
とリョーシカが私に訊いた。リョーシカは理論物理学者だ。それは、今私が置かれている立場からすると、それももっともな話と言わざるを得ない。というのもリョーシカにとって、科学がコーヒーカップならいいかといえば、必ずしもそうではないことぐらい、私にだってわかるからだ。しかも悪いことにリョーシカには科学がわかり、その科学はコーヒーカップではない。

そこで私はコーヒーカップについて語ることにした。
「コーヒーカップというのは、手に持てる。見える。触ることができるよね?」
「そうですよ」と柚香さんが言った。「私はこれがいいって選んで、手にすることができるんです」。

「ああ、それで、」とリョーシカは言った。「そのコーヒーカップが、科学なの?」
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2008年9月19日金曜日

水たまりの空

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子供の時には、いろんな空想がいくらでもあふれ出てくるものだ。いや、そうではなくて、その起こる確率の低い空想に、いくらでもしつこく関わっていられるというところが、今の私と違うのかもしれない。今の私はそうやすやすと確率の低い空想につきあえてしまってはいけない。そうするには、また別の理由が必要だ。

子供が長靴をはいて、水たまりをみつけると走っていく。おそるおそる入って、ついにはそこらじゅうに水をはねかして終わる。そして、濁った水面に映っていた風景を記憶する。樹が揺れていたこと、うっすらと水色の空がのぞいていたこと。
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2008年9月18日木曜日

ママはカフェにいる。

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ハリーポッターの作者が、スコットランドの首都エジンバラにあるカフェで、かのベストセラーを書き上げたことは、あまりにも有名である。そんなにも寒い町で、眠った子供を置いて夜のカフェへ出かけていくのは、どういう気分だろう?  だが実際に子供を持ってみると、一旦眠った子供はちょっとやそっとで目を覚ましたりしない。だが、子供がある程度大きくなっていて、ママはカフェに居るんだ、と思えているなら、それに越したことはないじゃないか、とも思う。ただいずれにしてもカフェへ出かけなければ、彼女はハリーポッターを書かなかっただろう。

どこでもいい、と思っていても、人はある場所で何か意味あることをするものであり、結局のところ、別の場所ではできないものなのである。
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2008年9月17日水曜日

カフェにはピンクのカーテン。

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starbucks coffee at tokyo japan








子供が最近、学校から帰ってくるとそおっと玄関のドアを開けて、音がしないように運動靴を脱いで、玄関マットの上に寝そべっている猫をなんとかまたいで、抜き足差し足でいったん洗面所に隠れて、台所のテーブルの下へ入って様子を窺い、私が動いた隙にリビングへ抜けて、ベランダへ出る窓のところのカーテンにくるまって隠れてしまう。

なんてひっそりとした夕焼け。

最近子供はちょっとふっくらして、子供の時の自分によく似ている。大人の自分をまねされるとどことなく腹が立つのに、子供の時の自分をまねされるのは愛らしい。

ふと、カフェの壁にはカーテンが描かれていて、気がつかないふりしてちょっとめくってみようかな、という気分を思いだす。
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2008年9月16日火曜日

アラスカにはスターバックスがない。

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「アメリカの公認会計士試験は、州ごとに試験が違うんです」
と、その女性は言った。
「いろんな事情があって、アラスカで受けることにしたんですね」
「アラスカですか」

公認会計士試験は、いくつかの科目があって、それを何年かのうちに規定数合格しなければならない。18ヵ月過ぎてしまうと合格した科目も無効になり、最初からやり直しになる。

「それで、仕事も忙しかったので1回で取ろうと決めたんです」
日本からアラスカへの直行便はなく、いちど西海岸へ行ってから、アンカレッジへ飛ぶ。
「空港へ降りると、もう息が白いんです。トナカイを見ました。こんなところまで来てね、受からなかったらどうしようと思いましたね。でも、結局受からなかったんですよ。1科目落としちゃったんです」
「ああ」
「それで、やっぱりもう1回だけ受けることにしました。これでだめならもうやめようということでね。それでまあ、受かったんですけど」

19世紀まではロシアだった氷の大地、アラスカ。Google Street Viewで見ると、通りは何の変哲もなく、アメリカの風景に見える。










「それで、もう一度アラスカへ行かれたんですね?」
「ええ、でもその時は、夏でした」
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2008年9月15日月曜日

絶望を、ちょっと遠くへおしやるために。

spacestarbucks coffee

人々がカフェに来る「積極的な」理由とはなんだろう? カフェでもいいのではなくて、カフェにしかなく、何らかの付随した理由ではなくて、理由の中心をなすもの。──そこで思いついたのだが、カフェというのは、絶望からなんとか生還するために不可欠な場所である、ということもできるんじゃないだろうか。

なぜカフェが絶望とかかわるのかといえば、たぶん、ふつうの生活のなかで、その生活を通常通りこなしながら絶望するのはむずかしいからである。といって、昨今、ひとりでいるときに安閑と絶望するというのもあまりないことに違いない。むしろ、誰かと居ながらにして絶望することのほうが多くて、それは絶望という静かな経過をとらないほうへ結果することにもなりかねない。

そこへ行くとカフェは絶望するには平和な場所のひとつである。たとえば海なんかもいいけれど、ちょっと疲れたなあというたびに、これはもしかして絶望ではないかというんで海へ行くというのではたいへんである。(海のそばに住んでいるならともかく!)

そこで私たちはカフェへ来るわけだが、そんな時は決まってカフェでは時間が膠着していて、にっちもさっちもいかなくなるというわけなのだ。

そういうわけで私は乱暴な言葉で、しかも平和にしゃべり、「要するに」と断っておいてから、やっぱりたいしたことのない意味を取りだす。取りだしてみれば、どこといって特徴のない、ただの珠であり、ただの持ち札であり、ただのマグカップである。

なんだ、それだけか。そう言って、絶望のほうが席を立っていくのである。
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2008年9月14日日曜日

プール一杯分の疲労について

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ずいぶん昔のことなのだけれど、スティーヴン・キングの『ファイアスターター』を読んだ時、これは頭が痛いということについての長編だと思った。こんなのは孫悟空以来だ。そしてしばらくは誰も頭が痛いことについて、書く気が起こらないだろう、と。

頭痛のタネがあっても、まあいいことにしよう。私の場合、さほど痛いわけじゃない。収まり方も尋常だし、そんなにも頻繁に襲われるというわけじゃない。

ところで今私が罹っているのは頭痛じゃなくて、プール一杯分もあろうかという疲労だ。だが残念ながら疲労という言葉を口にした瞬間から、私はもう眠りに落ちている。
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2008年9月13日土曜日

再会。

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毎日のように動物たちが訪ねてくる。
「ばんざい、これで今日からネット・ペット・カフェだ」
うっかりそんなことを言ったら、ところがだ。もうたいへんな抗議、抗議、抗議。

ペットだって? 誰が?
ぼくらは動物でしょう。しかも絶滅した動物なんだよ。それがどうしてペットになっちゃったんだ?
カフェだなんて、ろくなもんじゃない。
ペットでもいいけど、そこには番犬も入るのか?

私は指揮者みたいにみんなを制してから
「えらそうにきこえると思うけど」と話し始めた。「私は全部憶えている。その記憶がいつもうまく取り出せるとは限らないけれど、脳の中にはみんなのことそれぞれが詰まっている。それはずっと引き継がれる」

オオカミなのに縞がついていたり、鳥なのに小さな羽根しかついていなかったり、野性の山羊なのに美しいブルーの体をしていたり、まるで何かの間違いといったふうに必ず変わったところのある絶滅動物たちはざわざわして、あちこちで言った──ほんとに、ほんとに、ほんとに?

「そう、うそではない」と私が言うと、みんなはいっそう安心したようだった。
だが、それで? と私自身は思う。こういう流れになること自体、プログラムがどこかバグってるんじゃないの?
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2008年9月12日金曜日

ドードーの伝言。

space「そういうつもりじゃなかったんだけど」とその子は言った。
「書き始めたら、それがずいぶん、っていうかかなり気になってるみたいだってことがわかったんだ」
「それが何だったの?」と私は聞いた。
「集中豪雨」

この子、これで関根勤のファンだというのだから、この先どうやって話を紡いでいったらいいのか、私にはとてもわからない。
「ふうん」
「集中豪雨っていうのはさ、最近まではこんなにたくさんなかったんだよ、知ってた?」
「……」
「昔は台風みたいな感じに来てたものらしいんですよ」
「悪いんですけど」と私は言った。「11時から用があるので、またにしてもらえません?」

そのあと、オフィスへ向かう電車の中で、それはごく瞬間的な短い夢だったのだけれど、私はインド洋の小さな島々で絶滅したドードーの夢を見た。20キログラム以上もあるという巨体に、申し訳程度の羽根のついた鳥だ。ドードーはいったいどんな声をしていたんだろう? そこで声の部分は聞こえないのだが、なかなか説得力のある話しぶりで、熱心に語りかけてくる。

「ドードー」と私は言いたかった。「いくらなんでもそれは手遅れだわ」
しかし私はそんなことは言わなかった、もちろん。夢がじゅうぶん短かったおかげで。
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2008年9月11日木曜日

午後の雨。

space午過ぎから、雨が降り始めた。昨今の雨は決して優雅ではない。ワゴン車を駐めて荷物を積み込んでいたおじいさんは、この突然の雨で、荷物を積むのを途中であきらめてしまった。道路を走る車が、もう水の音を立てている。

中島たい子『漢方小説』を読んだ。いい読み物だと私は思った。新潮クレスト・ブックスの『記憶に残っていること』の「マッサージ療法師ロマン・バーマン」よりもいい。

カフェでは、私はどうしても発言が過激になる。気ままになり、言いたい放題になる。中島たい子の『漢方小説』は、チェーホフの再来と言われているらしいデイヴィッド・ベズモーズギスの『マッサージ療法師ロマン・バーマン』よりもいいだって? 何を基準にそんなことを言うんだ?

私は饒舌になる。いや、こんな時こそ決して進路変更しないのである。だいたい『マッサージ療法師ロマン・バーマン』は、細かいところまできちんと描きすぎる。それに扱うテーマが大きいほうが文学だというわけじゃない。というより、東京の30代のライターが、自転しつづける地球の政治的側面とか、移民として生きることの痛切さとかについて語るとしたら、そっちのほうが不自然というものじゃないだろうか? 帝国が歴史を書くように、帝国が人生を書くべきなのだろうか? 

「まさか」

色とりどりの傘がバスターミナルじゅうに開き、街路にはもう傘をさしていない人は一人もいない。私たちこそ、黄色い光に充ちたカフェに閉じこめられていると言えなくもない。ひとつの色の、ひとつの香りの、空気の動かないカフェに。

違うだろうと、私も思う。それがどうしたのだ。美しいドゥクラングールがこのままでは絶滅してしまうからといって、ドゥクラングールが住みやすいように地球をすっかり変えてしまうことなんて、誰にもできないのだ。
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2008年9月10日水曜日

マンハッタンの西。

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今日はどこへ行っても、ニューヨーク生まれのアダム・ヘイズリットの『献身的な愛』という短篇と、ワールドトレードセンターと、Google Street Viewが追いかけてくる。

真昼の日射しにも、8月のような強さはなく、植木鉢の葉のふちが茶色くなり始めているのを明るく、黄色く照らしている。

電話が鳴った。どちらかというと、無視しようと思ったがとりあえず出ることにした。

夫からだった。今朝話していたことが気になって仕事がはかどらないから、これから家へ帰る、と夫は言った。昨今、集中豪雨だの、落雷だのよりずっと珍しいわね、と私は言った。

西へ傾く太陽を追って、夫が東雲の会社から戻ってきた。

starbucks in new york
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2008年9月9日火曜日

ジャズの流れる……。

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彼女とはいつも街のスターバックスで会うので、どうしてもカフェの話が出ることが多い。とりあえず目の前にあるし、共通項としてわかりやすいし、それにそもそも私も彼女もここが気に入っているのだ。他のカフェよりもずっと。

人にはそれぞれ事情があり、それぞれ故郷がある。彼女の生まれ育った街では、最近スターバックスが打ち出した店を減らすという戦略で、とても高い割合でカフェが閉じることになった。

私の街では、スターバックスは健在だ。ではなぜ、東京で、人々は他のカフェでなく、スターバックスへ行くのだろう? と彼女は質問を試みる。それに答えていて、自分は結局、「居心地がいいから行く」と言いたくないのだと気がついた。うるさくないから、気持ちよく過ごせるから、良質のJAZZが聴けるから。そんなふうに簡単に答える気がさしてないのに気づいたのだった。

まさか。なんというていたらく!
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