2008年9月20日土曜日
コーヒーカップとしての科学
「ですからね、科学のむずかしいお話も、もしコーヒーカップのようなものだったら、いいんですよ」
と柚香さんは言った。柚子の香りと書いて、ゆずかと読む。柚香さんはファッションの畑を歩いてきた人だ。職業柄、頭の先から爪先まで、一抹の不整合もない。
私は、文字通り、目から鱗が落ちた。「そうですよね、コーヒーカップならいいわけですよね」と力強く相づちを打った。
「それ、どういうこと?」
とリョーシカが私に訊いた。リョーシカは理論物理学者だ。それは、今私が置かれている立場からすると、それももっともな話と言わざるを得ない。というのもリョーシカにとって、科学がコーヒーカップならいいかといえば、必ずしもそうではないことぐらい、私にだってわかるからだ。しかも悪いことにリョーシカには科学がわかり、その科学はコーヒーカップではない。
そこで私はコーヒーカップについて語ることにした。
「コーヒーカップというのは、手に持てる。見える。触ることができるよね?」
「そうですよ」と柚香さんが言った。「私はこれがいいって選んで、手にすることができるんです」。
「ああ、それで、」とリョーシカは言った。「そのコーヒーカップが、科学なの?」
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