2008年9月15日月曜日

絶望を、ちょっと遠くへおしやるために。

spacestarbucks coffee

人々がカフェに来る「積極的な」理由とはなんだろう? カフェでもいいのではなくて、カフェにしかなく、何らかの付随した理由ではなくて、理由の中心をなすもの。──そこで思いついたのだが、カフェというのは、絶望からなんとか生還するために不可欠な場所である、ということもできるんじゃないだろうか。

なぜカフェが絶望とかかわるのかといえば、たぶん、ふつうの生活のなかで、その生活を通常通りこなしながら絶望するのはむずかしいからである。といって、昨今、ひとりでいるときに安閑と絶望するというのもあまりないことに違いない。むしろ、誰かと居ながらにして絶望することのほうが多くて、それは絶望という静かな経過をとらないほうへ結果することにもなりかねない。

そこへ行くとカフェは絶望するには平和な場所のひとつである。たとえば海なんかもいいけれど、ちょっと疲れたなあというたびに、これはもしかして絶望ではないかというんで海へ行くというのではたいへんである。(海のそばに住んでいるならともかく!)

そこで私たちはカフェへ来るわけだが、そんな時は決まってカフェでは時間が膠着していて、にっちもさっちもいかなくなるというわけなのだ。

そういうわけで私は乱暴な言葉で、しかも平和にしゃべり、「要するに」と断っておいてから、やっぱりたいしたことのない意味を取りだす。取りだしてみれば、どこといって特徴のない、ただの珠であり、ただの持ち札であり、ただのマグカップである。

なんだ、それだけか。そう言って、絶望のほうが席を立っていくのである。
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