2008年10月18日土曜日

イタチとジャズ。

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このエピソードは、いたちがもうすっかりカフェの仕事に慣れて、天井店の2階を任されて過ごしていたころへと進んでいる。イタチは緑色のエプロンをかけ、片手にダスターを持ち、ほんの少しだけ壁に寄りかかって階下の気配を、ていねいに聞き取っていた。エプロンの下からは、もさもさと毛の生えたお腹がしろっぽく見えている。イタチはますますびっくりしたように耳を立て、周囲の物音に聴き入っていた。

スピーカーからは、ジャズボーカルが流れていた。ここではだいたい10曲に1曲ぐらいの割合で、低音の女性ジャズボーカルがかかる。しかしながら、どちらかというと、イタチはそれほど注意深く音楽を聴いてるわけではなかった。イタチが聴いていたのは人の話し声、椅子を引くときに立てるこそっとした音、書類をめくる音、バッグをかき回す音、そしてエアコンの音、食器の音。曲の変わり目さえ、めったに気づくことはないくらいだった。

ところがその日は唐突に、ジャズボーカルがイタチの耳に入ってきたのだ。それはイタチの暗い耳の穴へすとんと、まるで井戸の中へ猫が落ちていくように沈んでいき、そこでイタチはあわてて目を覚ましたのだ。

「これがジャズボーカルというものか」とイタチは思った。歌が、何を言っているかはよくわからなかった。「だがジャズボーカルというものは」と、イタチは覚え立ての言葉で、自分に語り始めた、「言葉がわからないからこそあるのだ。それなのに、ジャズボーカルは、それでもまだ言葉で歌おうとするものなのだ」。通奏低音のように、人々の話し声がフロアに流れていた。
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